「懐かしいと感じました」
流暢な日本語でそう口にしたのは、台北で出会った台湾人の林(リン)おじさんだ。 「退職して初めて日本を旅行しました。懐かしいと感じました」 台湾人である彼が、日本の地を“懐かしい”と言っている。私にとってこの言葉は衝撃だった。
私は 2016 年から台湾に通って人物と風景のポートレイトを撮影している(シリーズ『Call』)。林おじさん(私は親しみを込めて“お父さん”と呼んでいるので、以後その様に表記する)とは、そうやって一人で台湾を訪れては撮影する中で、市場の屋台で出会った。沢山注文し過ぎて口をつける事が出来なかったおかずを、良かったら食べませんかと、私から英語で話しかけた。「日本人ですか?」思いがけず日本語が返ってきた。きょとんとする私に彼は続ける。「私は台湾人ですが日本の国籍も、名前も持っています。妻も同じです。私たちは日本語で教育を受けました」
お父さんは日本統治時代である1930年後半に、台南の病院の家に生まれた。ちょうど日本の皇⺠化教育が盛んになり始めた時期だ。8 歳まで尋常小学校に通って日本の教育を受けた後、しばらくして大阪の商社に就職し、北海道や大阪に短期滞在を経験した。それから数十年間、日本に行くことはなかったようだ。それが数年前に初めて日本に旅行で訪れた時に”懐かしい”という思いが込み上げてきたのだという。なぜ何年も日本を訪れなかったのかは分からない。しかし、今でも日本語を独学で学び、NHKを日本語で見る。自分では口にしなかったが、日本をもう一つの故郷のように想っているのではないかと私は感じていた。
台湾の日本統治については教科書で習った筈だが、自分の中でリアリティの像を結んでいなかった。それが懐かしいという言葉が引き金になって、私の中に様々な感情が湧き起こったのだ。個人的な事だが私には帰るべき故郷がないので、なおさら故郷がどういう物なのか分からなくなってしまった。日本人として生まれてきたが、台湾の土地で育った。今でも日本国籍を持ち、日本語を話す。今の台湾には幼い頃に過ごした日本統治時代の面影は殆どない。だから日本の地が懐かしい。この事柄が意味するのは何だろう。私はお父さんからもっと故郷や人生について耳を傾ける必要があると感じた。
そんな彼も80歳を過ぎて肝臓の病気を患っており、いつでも話を聞けるわけではない。同様に当時の日本語教育を受けた方々の高齢化が進み、このまま行けば話をしてくれる人があと数年でいなくなってしまう。日本の植⺠地政策を含めた戦争にまつわる話が完全に風化し人々の記憶から忘れ去られようとしている今、単なる記録ではない直接人の心に触れる方法で表現する事が必要ではないだろうか。私は写真とインタビューにより、お父さんの故郷はどこか、故郷とは何かという問いを通して、日本のかつての植⺠地政策について考えるきっかけを提示したい。
作家名波多野祐貴作品名Search for His Home年度2020年 PITCH GRANT