熊本県南部、不知火海に面した港町から山間へ向かう。鬱蒼とする杉山を抜け、一気に空が広がった。山の斜面に這うような集落と対面する景色は山と山で繋がれた稜線が続く。その場所は、黒岩という。
”山間部、半数に水俣病症状”。2012年1月、新聞に目が止まった。2011年10月の集団検診で、当時住民 78人中39人が受診、37人に水俣病の症状が確認された。 水俣病は知ってはいるが、現在なのか? 海ではなく山? 同じ熊本県内のことでも何も知らなかった。その数日後、集落を訪れてみても他の山間集落となんら変わりない。水俣病とは一体なんなのか? 水俣へ向かった。
現在の被害者の多くは慢性型で四肢末端のしびれや感覚障害など外見にはわかりづらい。それゆえに疑われ差別されたり、声を上げずらい風潮があるという。更に年齢的なもので自身が水俣病と思わなかったという話も珍しくはない。次第にこの知識の浅はかさでカメラを向ける事に抵抗を覚えた。
「メゴばいのうて来よらしたもんな。」
時を遡ると、行商が1日に1度か2度、籠いっぱいの魚を担いで来てたという。山の作物は海へ、海の魚は山へ運ばれ、互いに結う暮らしがあった。道のない時代の生活圏は今とは異なるのではないだろうか。
田に水を張り稲を植える。山に生かされ山へ祈る。そして、火の灯るところに人が集う。
便利を追求しようと社会を発展させていく。その影で失くしたもの、失くそうとしてるものがあるかもしれない。ここには土着した暮らしがかろうじて残っている。その日常に、水俣病はふとした会話や動作が現れる事が幾度かあった。だがそこに気づくかどうか、私も周囲も本人ですら様々で定かでもない。
水俣を訪ねると時折、幼少の頃の記憶が蘇ることあった。近所の人がある時、見たこともない悲しい表情 で涙を流し語りだす。家族、仕事、結婚、子育て。その背景にあったのが被差別部落問題だった。小学生になると人権学習会や集会に参加したが、内心友人には説明できず、強制的に参加させられる機会はとても息苦しかった。しかしそれら境遇と水俣病が重なっていくごとに、撮られる者の痛みと、撮ることの暴力性を感覚として得た。そして、今まで数々の報道写真家が水俣の地に入り、世に大きな衝撃を与え、証言として 訴える非常に重要な役割を担ってきたように思う。一方で、それらは現在も当時の”悲劇の象徴”としてのイメージを固着し続けているようにも思える。
私は水俣病のことを学びに水俣へ来て知り得たのは「水俣病の水俣」だった。今、水俣に住み、生活者の一人としての視点で「水俣の水俣病」を、「今の水俣」を、この土地を撮り続けたい。今回のグラントは持続するための足掛かりになるだろう。
ただそこにそっと在る、言葉にならない言葉が日々のことづてとなり、暮らしの中でそれぞれが一度足を止め考える。その入り口に繋がればと考えている。
作家名豊田有希作品名あめつちのことづて年度2020年 PITCH GRANT